7日、野球殿堂博物館の野球殿堂ホールにて、夏季オリンピック ロサンゼルス大会 野球競技優勝30周年記念トークイベント「野球とオリンピック」が開催されました。
野球が初めてオリンピックでメダルを争う公開競技として開催された1984年ロサンゼルス大会で、松永怜一監督率いる全日本は決勝で開催国アメリカを破り、金メダルを獲得しました。本日8月7日でその決勝戦からちょうど30周年。これを記念したトークイベントということで、松永監督(2007年野球殿堂入り)と、選手として決勝のアメリカ戦で3ランを放つなど主砲として活躍した広澤克実氏、またソウル大会の鈴木義信監督、バルセロナ大会の山中正竹監督、アトランタ大会の川島勝司監督、シドニー大会の大田垣耕造監督といった歴代オリンピック日本代表監督が集結し、各大会の秘話や、2020年東京大会での野球競技復活を願った熱いトークが繰り広げられました。
松永怜一氏
ロサンゼルス大会で活躍した広澤氏は、「ただ、ただ厳しかった。朝起きて散歩してミーティング、練習してミーティング、また練習してミーティング。1日3回もミーティングがありました。鈴木さんも鬼コーチ(後のソウル大会監督)で、ロスの真夏は40度。その炎天下の中、監督とコーチの命令でティーバッティング2時間! 日ごろ太陽の下で野球やってる選手が首の後ろがヤケドして皮がむけちゃうほど。それでもバットを振らせた2人です!(笑) 積年の恨みを…」と、松永氏と鈴木氏を紹介。その後も次々と厳しかった当時の出来事を披露して会場を沸かせつつも、松永監督の教えを今も大切にしていることを告白する一幕もありました。
広澤克実氏
「決勝のドジャースタジアムに入ると、超満員でUSAの大合唱。アメリカの強さも知ってたし、向こうのベンチはリラックスしてるようにも見えた。こっちはガチガチだし、これはダメだ、と。そんな時に松永監督が全員集めて、『お前ら、あんなに陽気に試合やったって今日は絶対うまくいかない。緊張した中から力を出せればいい。緊張しないとできないこともたくさんある』と言われ、“あ、今日は緊張していいんだ”と思えた。今もよく『プレッシャーに押しつぶされそうになったら、どうすればいいですか』と質問されることがありますが、『緊張していいんだよ。緊張していたからこそできることがある。緊張は君たちの敵じゃない』と使わせていただいております(笑)。多分、日本チームはあの一言で勝てたんです」
そんな心温まる思い出に続いて、各監督もそれぞれの大会でのエピソードを次のように話していました。
鈴木義信氏(ソウル大会監督 全日本野球協会副会長)
鈴木義信氏
「ソウル大会ではロスより3割くらい強いチーム編成だったんですが、決勝でアメリカに負けました。その決勝で投げたジム・アボットという、先天性右手欠損のハンディキャップを抱えた投手が私のところへ試合前に来て、『今回の大会は2つの目的を持って来た。1つはロスの雪辱を果たしたい。もう1つは、自分よりももっと重度の難病でスポーツをやっている選手はたくさんいる。自分はたいしたことない。そういう人たちに金メダルを獲って夢を与えたい』と言っていた。その決勝で日本の選手が打ったピッチャーライナーがジム・アボットの方に飛んで、右腕に挟んだグラブを投げ終わった左手に持ち替えて捕るわけですが、ライナーだったので普通よけるところを彼は胸を出した。胸に当たって落ちたボールを拾いなおして一塁に投げて、思わず日本ベンチからも拍手が出ましたね。試合が終わった後にベンチに『おめでとう』と言いに行くと、『約束どおり目的を果たした』と。当時の選手には金メダルを獲れなかったことは非常に申し訳なかったですが、これからの野球人生で、金メダル以上の、ジム・アボットのいいところを吸収してほしいと言ったことを思い出します」
山中正竹氏(バルセロナ大会監督 法政大学特任教授)
山中正竹氏
「バルセロナ大会から野球が正式種目になり、日本代表への期待も関心も高かった。キューバも登場し、実力は群を抜いていたが、せめて銀メダルは獲ってもらいたいというムードだった。でも準決勝で台湾に1対2で敗れた瞬間に目標が断たれ、選手たちも帰りのバスの中で一言も出ないくらい悔やんでいた。油断とか、研究不足ということを言われましたね。3位決定戦ではアメリカに勝つことができましたが、ただ一言で言うならば、打てなかった。先ほどロスの大会で広澤くんがバットを振り込んでいたという話がありましたが、バルセロナでも選手村で、柔道の神永さん(バルセロナ大会の神永昭夫日本代表監督)に『あれは誰だ』と聞かれたことがありました。学生で一人だけ選ばれた小久保くん(当時青山学院大の小久保裕紀選手)で、『毎晩、選手村の角っこの暗いところで同じ時間にバットを振り続けているんですよ。ああいう人間が実績を残して日本の野球のリーダーになっていくんでしょうね』と仰った。一流の人が一流を知るというか、感じ抜く力を感じました。オリンピックの選手村ではアスリートのプライドを感じました。代表者として世界一を競い合う、スポーツマンとしての誇り、挑戦することの凄さ、世界のあらゆる国の人が一緒になってスポーツの仲間という雰囲気を感じる。それを2020年以降のオリンピックで今野球をやっている子どもたちに経験させたいなという思いがあるので、野球の復活を願っています。」
川島勝司氏(アトランタ大会監督 前日本野球連盟副会長)
川島勝司氏
「アトランタブレーブスの本拠地で5万人強が入るスタジアムでやりましたが、アメリカ、日本、キューバが絡む試合だと4万5千人から7千人くらい入って、オリンピックは華やかだと思っていました。でも、バスが来なくて試合開始が1時間遅れたり、宿舎の火災報知機が0時過ぎに鳴り響いたり、考えられないハプニングもたくさんありました。そういう中でオリンピックでメダルを獲るのは、凄いこと。精神的なものを克服して勝つのは大変なこと。実力だけでなく、精神力の強さ、たくましさも必要だなと。決勝でキューバと戦い、先発した杉浦投手(日本石油・杉浦正則投手)が2イニングで6点を取られました。でも松中選手(当時新日鉄君津の松中信彦選手)が同点の満塁ホームランを打った。後から聞いたら杉浦さんが取られた点を我々は返しますという気持ちだったそう。試合は負けたけど、試合後に4万2千人の観客から拍手が鳴り止まず、ボランティアの方から『あなたたちがビクトリーランやるのを待っている。頑張ったのだからやりなさい』と言われた。選手たちも半泣きで出て行って、旗を振ったのが印象的。金に値する銀メダルでした」
大田垣耕造氏(シドニー大会監督 全日本野球協会常務理事)
大田垣耕造氏
「1998年からプロが参加するようになり、2000年のシドニー大会ではプロから8名の選手が出てくれました。パ・リーグは自由に、セ・リーグはプロテクト以外の選手からということで、まだまだオリンピックに対するプロの目が向いてなかったのかなというのを感じました。残念ながら本大会では4位に終わってしまいましたが、そのとき私が感じたのはプロの選手はビジネスライクでやるのではと思っていましたが、3位決定戦に敗れ、ベンチ、控え室でみんなが泣いていたのを見て、プロの選手がこんな気持ちで来てくれたんだと。もっともっとうまく活用できずに申し訳なかったなと思いました。野球界のプロアマの垣根はだんだん低くなってきたけど、もっともっと低くなることによって子どもたちがもっと野球に興味を持ってくれるんじゃないかと思います。そのためには、ぜひ2020年に東京で野球が復活することを願います」
最後に、松永氏から「いまや108ヶ国が世界野球連盟に加盟している。今日まで発展させてきた先輩方の苦心を忘れてはならない。野球が(オリンピック競技として)復活となるかどうか。オリンピックを経験した監督みんなで団結して、わずかな期間ではあるが、復活のために、後進のために、全国民の期待に添うように頑張っていきたい」とトークイベントを締めくくりました。