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侍ジャパン強化試合 対戦国紹介~メキシコ野球の歴史~

2016年11月6日

文・写真提供=阿佐智

 メキシコにいつ野球が伝来したのかについて正確にいい当てることは難しいが、本場アメリカでそれが現在の形のゲームとして完成していくばくもたたない頃であることは間違いない。
 1847年にベラクルス州ハラパで米軍兵士によって行われた試合が「メキシコ野球事始め」という説もあるが、有力な説は、19世紀の末にアメリカとの国境、リオグランデ川を越えてメキシコシティへと延びた鉄道の建設技術者によって、あるいは、太平洋岸にやってきたアメリカの水兵によって、そして、南部ユカタン半島からアメリカの船乗りかキューバ人によって、という3つのルートからもたらされたというものである。
 これにもとづいて、テキサスとの国境の町、タマウリパス州のヌエボ・ラレド、太平洋岸ソノラ州のグアイマスが「メキシコ野球発祥の地」として名乗り出ている。実際、ユカタン半島を含めたこれらの地は、現在においても、サッカーが優勢を誇るこの国にあって、野球人気がサッカーのそれに準じるか、もしくはしのいでいる。

 1877年には、そのグアイマスでアメリカ兵による試合が見世物として行われ、ほどなくして、メキシコ人によるクラブも結成された。1884年には、首都メキシコシティでメキシコ人による試合が行われ、この頃には大西洋岸の港町、ベラクルスにもクラブチームが設立されたという。現在、プロリーグ、メキシカンリーグで最多の15回の優勝を誇るディアブロスロッホス・デ・メヒコ(メキシコシティ・レッドデビルズ)は、この時期に結成された「クラブ・メヒコ」を源流としている。

 世紀が変わる頃になると、メキシコ人のクラブがアメリカ人を雇い入れてリーグ戦を実施したり、1906年にその年のワールドチャンピオン、シカゴ・ホワイトソックスが来訪するなどのアメリカやキューバのプロチームによる試合興行が行われたりした。そして、1920年代には、野球はメキシコで一番の人気スポーツとなった。1925年にはアメリカで活動していたスポーツ記者アレハンドロ・レイエスにより、現在まで続く国内トップリーグであるメキシカンリーグ(リガ・メヒカーナ・デ・ベイスボル)がメキシコシティ周辺の6チームにより産声をあげた。
 このリーグは、当初1チームあたりの10数試合の地方リーグにしか過ぎなかったが、1940年、タバコ産業や貿易で財をなした若き富豪、ホルヘ・パスケルが、自らの故郷の名を冠したアスルス・デル・ベラクルス(ベラクルス・ブルース)擁して参入したのをきっかけに本格的な全国規模のプロリーグに発展していく。

 パスケルは、リーグ参入に際して、名門チーム、ディアブロスも買収し、アスルスとの共同のホームグラウンドとして首都メキシコシティの球場、デルタ・パーク(パルケ・デルタ)も購入、これを収容2万人の大球場に改修した。そして、自ら監督としてアスルスを率い、さっそくリーグ制覇を成し遂げると、翌年もオーナーとしてリーグ連覇を果たした。
 1946年にはリーグ会長の地位を手に入れたパスケルは、メキシカンリーグをメジャーリーグに対抗するプロリーグにすべく「野球戦争」とも言われる選手の引き抜き合戦を行なう。結局この争いは、メキシコの野球設備の不備などもあり、メジャーリーグの勝利に終わった。資金の尽きたパスケルは1952年シーズンを前にリーグから撤退し、55年には航空機事故のために逝去する。
 同年、メキシカンリーグはアメリカのマイナーリーグ統括組織であるナショナルアソシエーションに加盟、メジャー傘下の2Aマイナーリーグとして運営されることとなった。また、リーグ存続のためパスケルから政府が購入した首都の球場、デルタパークは取り壊された上、収容2万5000人の新球場として建て直された。新球場には自らの名を冠したいというパスケルの願いは叶えられることなく、セグロソシアル(社会保険)という無機質な名がつけられることになった。

 この年からリーグ主導権は、新球団ティグレス(タイガース)をもって新球場に乗り込んできた富豪、アレッホ・ペラルタが握ることになった。ティグレスは参入初年度に早速優勝すると、以後、ディアブロスに続く12回のリーグ制覇を成し遂げる。このチームは、3度目の優勝を成し遂げた後の1966年春、来日し、日本のプロチームとのオープン戦で13戦で全敗したが、この年のペナントも手にしている。
 1960年には、メジャーリーグ傘下のA級マイナーリーグとしてメキシカンセントラルリーグも創設され、さらにメキシカンリーグは1967年、3Aに昇格する。1979年には両リーグは統合されたが、統合後の20球団制を維持することはできず、1981年には16球団制となった。以降、現在に至るまでメキシカンリーグは、年によって増減はあるものの、基本的に南北2地区16球団制で運営されている。

 メキシコには、このメキシカンリーグのほか、複数のリーグが国内各地で展開されていたが、温暖な気候は冬季のリーグ開催も可能にした。現在まで続くウィンターリーグは、1945年、リガ・デラ・コスタ・デル・パシフィコ(パシフィックコーストリーグ)として太平洋岸に創設、その後リガ・インベルナル・デ・ソノラ(ソノラウィンターリーグ)、リガ・ソノラ・シナロア(ソノラ・シナロアリーグ)と名を変え、1970年に現在のリガ・メヒカーノ・デル・パシフィコ(メキシカンパシフィックリーグ)となり、カリブ野球連盟に加入、各国主要ウィンターリーグの国際大会であるカリビアンシリーズへの出場権を手にし、以降メキシコ勢は9回の優勝を誇り、現在に至っている。

 このような長い野球の歴史をもつメキシコからは、1933年にボストン・レッドソックス入りし、通算706安打を記録したメル・アルマダ以降、これまで121人のメジャーリーガーが輩出されている。なかでも、メキシカンリーグでプロデビューし、1949年にクリーブランド・インディアンスに入団以降、メジャー11シーズンで1296安打を記録、1954年にアメリカンリーグの首位打者となり、メキシコ人初のタイトルホルダーとなったボビー(メキシコ名・ベト)・アビラは、メキシコ球界の英雄とされ、彼の出身地、ベラクルスと、彼が現役最後のシーズンを送ったティグレスの現在の本拠、カンクンの2つの球場には彼の名が冠せられている。
 幾多のメキシコ人メジャーリーガーの中で、もっとも有名なのはフェルナンド・バレンズエラだろう。1980年にドジャースでメジャーデビューした彼は、翌81年に先発ローテーション入りすると、開幕8連勝を記録、チームをワールドチャンピオンに導くとともに、新人王とサイヤング賞をダブル受賞した。

 1984年シーズン限りで西武を退団し、ブリュワーズのスプリングトレーニングに参加しメジャーを目指していた江夏豊との開幕ロースター争いを制したテディ・ヒゲラはその1985年のメジャーデビューでいきなり15勝、翌年には20勝を挙げた。
 打の方で言えば、1990年代後半、ロッキーズ打線の中軸をになったビニー・カスティージャがおなじみである。

 日本のプロ野球でもメキシコ人選手は活躍している。過去には、巨人で投手としての才能を開花させたエルマー・デセンスやオリックスで3試合連続3ホーマーの世界記録をうちたてたカリム・ガルシアなどがプレーしていた。現在でも、華麗な守備でファンを魅了するルイス・クルーズ(巨人)、先の日本シリーズで好救援を見せたルイス・メンドーサ(北海道日本ハム)、巨漢ぶりが話題になったジャフェット・アマダー(東北楽天)らが、メキシコ出身者として活躍している。

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