東京オリンピックで見事に金メダルを獲得した野球日本代表。公開競技だった1984年のロサンゼルス大会以来2回目、プロ選手の参加が解禁された2000年のシドニー大会以降初となる金メダル獲得を成し遂げた稲葉篤紀監督に、チームの結束の要因や迷いのなかった選手選考などを聞いた。
結束の要因
――あらためまして金メダル獲得おめでとうございます!
「ありがとうございます!」
――チームとして結束できた要因はどのようにお考えですか?
「やはり4年間かけてやってこられたということが大きかったです。選手との関係も築けましたし、強化試合も含めて様々な試合を行う中での反省も生かしながら成長できました。また、コーチ陣も“金メダルを獲るために”と4年間やってくれましたから、それもひとつの要因だと思います」
――国際試合を戦う上で4年という期間は大きいですね。
「それももちろん大きかったですし、選手が代表に来た時の役割をすごく理解してくれていました。オリンピックでは2019年のプレミア12を経験した選手が多かったので、なおさら自分の役割を分かっていました。ピッチャーはルーキーも含めて若いピッチャーが多かったですが、(田中)将大や(大野)雄大など年上の選手が上手くまとめてくれました」
――投手はプロ経験の浅いフレッシュな選手を複数選出しましたが、野手はプレミア12を経験した選手を中心に選出しました。この意図はどのようなものでしたか?
「野手は成績ももちろんですが、私との関係性もあります。彼らは話をしているとみんな“オリンピックで金メダルを獲りたい”とずっと言ってくれていました。投手に関してもある程度成績を見ながらですが、この1年間で若い選手がグッと出てきたことが要因としては大きいです。私の中で初選出の選手は未知の世界というか、一緒に戦ったことのない間柄ではありましたが、建山(義紀)コーチも含めた首脳陣で“間違いなく国際大会でやってくれるでしょう”という選手たちを選びました。ベテランと若い選手が融合し、本当に素晴らしいチームができあがったと思います」
――稲葉監督が就任して以降、常に召集してきた選手の活躍も大きかったですね。
「(山﨑)康晃と(甲斐)拓也は4年間ずっと私の下でやってくれましたし、そういう繋がりも本当に良かったなと思います。拓也も最後、キャッチャーとして上手くやってくれましたし、康晃は試合では投げる機会は多くありませんでしたが、ベンチやブルペンで投手陣を上手くまとめてくれました」
――源田壮亮選手、栗原陵矢選手らのベンチでの振る舞いや準備も、結束や勝利に繋がりました。
「そうした選手が控えているので、最後に思いきった采配ができました。彼らは彼らで準備をしっかりとしてくれていましたし、理解もしてくれました。試合前に壮亮や近ちゃん(近藤健介)に“(試合の)最後頼むよ”と言うと“自分たちが出ない展開になる方がチームとしてはいいんですよね”と言ってくれましたし、陵矢も難しい場面でしたが一球でバントを決めてくれた。そういう思いを聞いたりプレーを観ると、“勝つためにみんなやってくれているんだな”と感謝の気持ちが溢れました」
――田中投手と並んで投手最年長だった大野選手も登板こそアメリカ戦の1イニングのみでしたが、その存在感はとても大きなものでした。
「(大野)雄大も最後、勝敗によって(翌日の敗者復活戦に)投げるのか投げないのかという気持ちの整理をしづらい中で本当に我慢してやってくれました。あとはヤギ(青柳晃洋)も慣れないポジションで、打たれてはしまいましたが、こちらの出し方が悪くて彼にはすごく申し訳ない思いでいっぱいでした。でも最後まで前を向いてやってくれて、非常に助かりました」
迷いのなかった選手選考
――かねてから重要視していた「良い選手を選ぶのではなく良いチームを作りたい」ということを現実にすることができたと言えるのではないでしょうか。
「メンバー発表をしたときにいろいろなことを言われましたし、本当に賛否ありました。でも私は“絶対にこのメンバーで勝てる”と思っていましたので、何の迷いもなく、“見てろよ”と思っていました(笑)選手と話したら、選手もそうした声を悔しく思っていました。それがまた良い方向に繋がっていったのかなと思います」
――現代はどうしてもそうした様々な声が耳に入ってきます。
「SNSは見なければ目に入ってきませんが、いろいろな評論家の方々がいろいろなことを言っているのはどうしても目にしてしまいます。それぞれの考え方があるし、批判ではなく野球の“あるある”だから仕方ないと思っています。その中でも悔しさがあったのは、やはり選手と接しているからこそ分かり合えているという思いもあったからでしょうね。勝ったことですべてが上手くいったかなと思います」
――良いチームを作るための24人であって、成績だけで選んだ24人ではないわけですね。
「勝ったからそういう風に言えるのか、負けていてもそう言えたのか分かりません。でも、それを度外視しても、このチームは最初に仙台で集まって2試合した時から“良いチーム”でした。今回は“バブル”という隔離された一歩も外に出られない、コンビニにすら行けないホテル暮らしを強いられました。また、福島から横浜まで5時間以上ものバス移動もありました。それにも関わらず文句ひとつ言わずにやってくれたことは、みんなのオリンピックへの思いの強さを表していたように感じます。このチームはすごく良いチームだったんだなと感じます」
後編(8月18日公開)では、個々のずば抜けた能力が要求される厳しいプロの世界を生き抜きながらも「良い選手を選ぶのではなく良いチームを作ること」に重きを置いた原点や、今後の野球界への期待、4年間の感謝を稲葉監督が熱く語る。